クリスマス連休 地下2階でたのしかった話 ①

とてもたのしかったので、ツイッターにもフェイスブックにも書きました。
それから1日経ったのですが、そのたのしさがまだ残ってるほどたのしかったです。
いいかげん一段落したいので、それをここに吐き出して落ち着こうと思います。

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たのしいクリスマス連休でした。
といっても、3日間のうち2日間はいつもどおりの休日です。
起きて、本読んで、走って、寝る。
なんの不満もありません、いつもどおりの休日です。
いつもと違ったのは、3連休初日のことでした。
そこで、残り2日間テキトーに過ごしてもたのしい!
と思えるほどの、たのしさゲットだぜ!したのです。

唐突ですが、わたしには以前から気になってる”ところ”がありました。
それを知ったのは、5年位前、とある週刊誌を読んで、です。
その瞬間は、「!!!!?」でした。

とはいえ、まさか自分がそんなとこへ行こうとは考えもせず
なんとなく知ってる、行った人がいるなら話を聞いてみたい
くらいの、気になってる、でした。

それがなぜ今更?
それはもう、ピンときたから、としかいいようがありません。
でもまぁ、今思えば、その予兆はありました。
ここ数日、ネットサーフィンしてると
なぜかやたら、そのワードが目に飛び込んでくるわけです。
頻繁に目にする類のワードではないはずなので、びっくりでした。
そんなわけで、気づけばそのことばかり考えてる、みたいな状態になってしまいました。

それでまずやったのが、ググる、でした。
どこにあるのか?どんな人が来てるのか?そこで何が起きているのか?
わたしみたいな真人間が行っても大丈夫なのか?本当に危なくないのか?などなど。
とにかく、ひたすらググりました。

そうこうしてるうちに気づくわけです。
このまとめスレ見るの3回目じゃね?と。

結局、ネットで得られる情報などたかが知れてる、ということなのでしょう。
それに、どれが本当の情報なのか、現場へ行かなければわかるはずありません。
これ以上ググっても堂々巡り、時間のムダだと悟りました。
ここでようやっと、決意できました。

そうと決めたら善は急げなので
ぱぱっと行き先を決めて、いざ出発したのであります。


彼女(彼氏)でないとダメですか?

非モテっぽい人とのツイッターでのやりとりを通じて思うことがあったので。
(ごめん!でもdisってるつもりはない!)

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そもそも、彼女(彼氏)って?

承認欲求と性欲の両方を受け止めてくれる存在

ではないかと、自分は思う。
それが、彼女(彼氏)がセフレや友だちと異なる点ではないだろうか。
セフレは承認欲求のための存在ではないし、友だちは性欲のための存在ではない。
セフレや友だちにその両方を求めてはいけない。大雑把にいうと、そんなイメージ。

それを踏まえた上で

「彼女(彼氏)いなくてツライ…」と嘆く人に対して、こう尋ねたい。

どうして彼女(彼氏)にこだわるの?
(承認欲求と性欲を)それぞれ別個に処理するのでは満足できないの?

承認欲求と性欲をそれぞれいい感じに満たしてくれる人と付き合ってれば
わざわざ彼女(彼氏)にこだわらずに済むんじゃね?と思う。
下衆な表現になるけれど、そのほうが彼女(彼氏)と付き合うよりコスパも良さそう。

一人の人間にそのどちらも満たしてもらえないと満足できないんだ!
ていう感覚、自分は理解できないな…。
あれもこれも求めちゃうのが人間の性なんだよ!て言われればそれまでだけれど…。

少なからず、こだわってこだわって自暴自棄になっちゃうくらいだったら
それぞれ別個に処理してたほうがきっと精神衛生的に好ましいよ、くらいには思う。

繰り返すように、自分の考えとしては
承認欲求と性欲をそれぞれ別個に処理してれば平和に生きれると思うし
そうすれば「彼女(彼氏)ができなくてツライ…」みたいになることもないと思う。

それでもなお「彼女(彼氏)ができなくてツライ…」みたいになるのなら
それは結局、周りを見てしまうことで生まれる劣等感、周りと比較してしまうことで生じる劣等感なんだろうね。
「あいつは持ってるのに、おれは持ってない…」みたいな。
いちいち気にするなよ、そんなのキリがないよ、と思う。

彼女(彼氏)がいなくてもふつうに幸せに生きれると思うよ。むしろそのほうが幸せだと思うよ。
ゴールデンウィーク中、そう思うことがたくさんあったよ。
デートコースを巡ってカフェで喧嘩してるカップルとか見たよ。せっかくの休日なのに大変そうだよ。
好きなときに、好きな場所で、好きなことできるほうがきっと幸せだよ。本当にそう思うよ。

非モテに向けた励ましの文章を書いたようで
悲しいかな、所詮、自分も非モテに他ならないのよね。
自分の主張も結局、単なる自己正当化、言い訳でしかないのだろうか…。
自分がモテモテだったなら、もう少し説得力があっただろうに…。クソ…。


わざわざ自戒を込めなくて結構です

最近見なくなったなと思ったけれど、完全消滅したわけではないらしい。

「自戒を込めて」

ツイッターをきっかけに流行った言葉だと思う。
まぁ、便利だからね。

でも、これって結局、文句を言うための方便でしょ?
誰かや何かに文句を言いたいのだけれど
言いっぱなしだと体裁が悪いから、これでやんわりとはぐらかしとくか、みたいな。

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気持ち悪いわ。

文句言うこと自体がどうこうではなくて
「自戒を込めて」とか付けながら文句言おうとする態度がなんか気持ち悪い。
文句言いながらヒヨってんじゃねえよ、ヒヨりながら文句言ってんじゃねえよ、と思う。

素敵なまとめを見つけたので、それも紹介しておきたい。

Twitterで「自戒を込めて」 と呟くひとたち【教訓いっぱい】

確かに教訓いっぱいだ、すごーい。もう感心しきりだよ。
それはさておき、それぞれの教訓から「自戒を込めて」を取り除いてみてほしい。
するとどうだろう、それらを取り除いたところで、なんら要旨は変わらないことに気がつくと思う。
やっぱり「自戒を込めて」なんていらなくね?

みなさんの言いたいことは、「自戒を込めて」なんて気持ち悪いの言葉を付けなくとも
よーくわかりますよ!大丈夫です!安心してください!

なので、わざわざ自戒を込めなくて結構です。


やたら承認や居場所を求める人はツマラナイ

すごく乱暴で偉そうな考えだとは思うけれど
はっきり言って、やたら承認や居場所を求める人には、ツマラナイ人が多いと思う。
勿論、人間誰しも承認や居場所を必要とするものだけれど
それらをやたら求める人は、どうもツマラナイ。

やたら承認や居場所を求める人は、自身を支える価値観が欠如しているように思う。
それを補うために、他人からの理解を求めたり、集団との同化を求めたりするのだろう。
そのためには、そこで共有されていることを、共有できるようにならなければいけない。
それで、そこでの規範からは逸脱しない、想定内の無難な発言、行動ばかりになる。
無難であることは、おもしろいことの対極にあると思う。言ってしまえば、ツマラナイ。

だから、承認や居場所を求めれば求めるほど
他人に迎合するツマラナイ発言や行動ばかりになり、ツマラナイ人になるのだと思う。

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一方で、そもそもおもしろい人は、わざわざ承認や居場所を求めないと思う。
おもしろさが人を惹きつける魅力の一つであるとするなら
無意識のうちに、彼らは承認や居場所を得ているだろうと考えられる。

冒頭の話に引きつけて言うなれば
おもしろい人とそうでない人を分ける要素の一つとして、価値観の有無が考えられる。

おもしろい人は、自分を支える確固たる価値観があるので
余計なことに気を取られることなく、自分の好きなことに没頭しているように見える。
そして、他人に迎合しない、良くも悪くも自由な発言や行動を見せてくれるように思う。
少なくとも自分は、そういう人を、おもしろい人と認識している。

じゃあ、テメー(自分)はどうなのか?
おもしろさについて自信はないけれど
やたら承認や居場所を求めたりしない自信はある。
自分勝手な人間なので、自分が良いと思う何かが見つかれば、それで満足できていると思う。

ここまで散々好き勝手書いてきたけれど
やたら承認や居場所を求める人には優しい人が多いと思う。
自分自身が不安や痛みに苛まれている分、他人に思いやりの心を持てるのだろう。
そういった人に自分が支えられていることも否定はできない。
それこそ、自分が今こう強気でいられるのは、そうした人のおかげであるのかもしれない。
少し反省する必要があるかもしれない…。

言いたいことが、ぐちゃぐちゃになってきた。
アグレッシブに書き始めたはずが、気付いたら少しディープになっている。
前半に書いたことも、後半に書いたことも、どちらも素直に思うことではある。
ふだん自分が口に出していることは、前半に書いた内容であるけれど
一方で、心の底で思っていることは、後半に書いた内容であるのだと思う。

書いているうちに、そんなことを確認できたので
それはそれでおもしろいと思った。


エイプリルフールと自意識

エイプリルフールからしばらく経ったので
心の中に留めておいた皮肉を吐き出そうと思う。

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はっきり言って、エイプリルフールが嫌いだ。
だって、おもしろくない人に限ってやたら張り切っているように感じるのだもの。
おもしろくない人に限って、おもしろくないウソを臆面もなく言い散らしているように思う。
この感じが本当に嫌いだ。

SNSはこの忌まわしき事態を助長していると思う。
おもしろくないウソが可視化、共有される。
それに触発された人が、”自分もやっていいんだ”みたいに思って、また別のところでおもしろくないウソをつく。
これが繰り返される。

この感じが本当に嫌いだ。

4月1日、ツイッターやフェイスブックには予想どおり、おもしくないウソが散見された。
「なにをおもしろいと思うかは人それぞれ。いちいち干渉することもない」
そう自分に言い聞かせたものの、やっぱり、腑に落ちないものは腑に落ちない。

これは自分の思い過ごしかもしれないけれど
今更、エイプリルフールにウソをつく、ボケるというのは、なかなかハードルの高いことだと思う。
「これからボケまーす」と暗に宣言し、受け手のハードルを無駄に上げてからボケる
みたいなものだからだ。

自分にはこのハードルを超えるセンスはない。
だから、エイプリルフールのウソ合戦には与することなく
いつもどおり過ごすのが賢明だ、そう考えた。

結局、あのようなお祭りに乗れるかどうかは、自意識の問題だ。
余計な自意識がある自分みたいな人間は、あのようなお祭りを一生たのしめないと思う。

その意味で、エイプリルフールというお祭りにかこつけて
あのようなことを臆面もなく言える(書ける)人たちはすごいと思う。
余計な自意識がないか、或いはそれを乗り越えてしまっている。
でも、少なくとも今の自分は、そういう「素直」な人とは分かち合えないと思う。

自意識に苛まれながら、それを乗り越え、お祭りに参加できる人は、すごいと思う。
心から尊敬する。そういう人はきっと、おもしろいウソをつくこともできると思う。
いつか自分もそうなりたいと思う。


すごい女子中生がいて、劣等感を感じた

半年前のニュースだけれど、ちょっと思うことがあったので。
「金魚とプール、楽しい」と放流 埼玉の中3女子4人を書類送検
以下、好きな部分を抜粋。

1人が「水面に大量の金魚が泳いでいたら、きれいに違いない」
とプールで一緒に泳ぐことを提案。

(そうだ、きれいだ)

意気投合した3人で金魚を袋に入れて運び
(友情だ)

プールに放って半裸で泳いだ。
(半裸?)

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「プールに金魚を放して一緒に泳げば楽しいと思った」

半年前、このニュースを見た瞬間
「負けた!」と思った。劣等感を感じずにはいれなかった。

この想像力は素晴らしいと思うし、それをやってしまう行動力も素晴らしいと思う。
それに共感する仲間がいたことも素晴らしいと思う。

それをそのままやってしまうことには流石にマズさを覚えるけれど
その想像力だとか、その行動力だとか、それに共感する仲間だとか
ふつうの人にはないものを持っているように思えて、感心してしまった。

そんな風に考えるものだから、自分は、この事件の”犯人”を
「バカで非常識な中学生」の一言では片付けられずにいる。
この事件自体は明らかにマズいものであるけれど
この事件の”犯人”について、いろいろと思うところがあってもいいと思う。

もし、この事件の”犯人”を頭ごなしにバカにする人がいたら
「なら、貴方には何があるの?」と聞きたい。
たぶん、常識 ぐらいしかないと思う。

この女子中生は、すごい。


「一人遊び」をくり返すなかで思ったこと

自分は孤独耐性が強い方だと思う。
一人でいることにあまり苦痛を感じない。
それどころか、一人でいる時間を何よりも大切にする方だ。

長いこと自由な時間を過ごしてきた。
その間、誰かや何かから制約を受けることなく
好きなことを、好きなように、好きなだけやることができた。

そこで自分は、「一人遊び」にふけった。
ここでは「一人遊び」を、自分一人でたのしい時間を過ごすこと
くらいのものとして考えている。

「一人遊び」のために自分が選んだのが、アニメ、映画、音楽だった。
一人でこれらに没頭する間、さびしさを感じることは特になかった。
人と会うことは、その妨げでしかないとさえ思うようになった。

好きなことを、好きなように、好きなだけやる。
たのしくないわけがない。
いくらでも続けていられるような気がしていた。

しかし、そんな生活が毎日繰り返されるうちに
段々とそうも感じられなくなってきた。なんだか、どん詰まってくるのだ。

「一人遊び」をしていれば必然と、自分の中にネタが蓄積されてくる。
これが一定量に達すると、今度はそれを「吐き出したい」という欲求が沸き上がってくる。

けれど、「一人遊び」は自己完結したものだ。
だから、「一人遊び」に留まっている限り、これらの欲求が昇華されることはない。
このままでは、どん詰りは解消されないのである。
どこかに「捌け口」をつくらなければならない、そう思うようになった。

思うに、なにごとにもキャパシティというものがある。
それは好きなものについてもそうだ。いくら好きなものだからといって
ただひたすらそれを摂取し続けていれば、いつかは消化不良を起こす。
摂取のためには排泄が必要だ。「一人遊び」を続けるためには排泄が必要だ。

そこで最近は、少しずつ人に会うようにしている。(会ってもらっている)
自分の話に付き合ってくれる心優しい人たちにお時間をいただいては
話したいことを、話したいように、話したいだけ吐き出している。
おかげで最近は、「一人遊び」が再び捗りだした気がする。

そんなわけで、「一人遊び」の末に、人に会うことの必要性を感じるようになった。
さびしさを紛らわすためではなく、「一人遊び」により一層没頭するために。

その意味で、自分が人に会う動機は、ものすごく身勝手なものだと思う。
人に会いに行く際も、「相手のために」みたいな思いは、正直ほとんどない。

けれども、そんな身勝手な自分に付き合ってくれる人がいる。
その上、たのしそうに(たのしそうなふりをして)話を聞いてくれる。
こっちは好き勝手に吐き散らしているだけなのだけれど…。
本当に心の優しい人たちだと思う。

僕はそんな人たちに「ありがとう」と言いたい。


自称変態のほとんどはパチモノ

変態を自称する人たちがいる。
その気持ちがわからなくもない。
けれど自分は、そういう人たちを
どうも冷ややかな眼で見てしまう。

少なくともこれまで自分が見てきた限り
変態を自称する人たちの多くは
決して変態などではなく
単に変態を演じる人たちでしかなかったように思う。
彼らはそれっぽい言動を意識して
それを再現するべく振舞っているにすぎない。
だから、自称変態のほとんどはパチモノだ。
そう考えている。

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それを演じることで、彼らは自身の目指すものに
近づいた気持ちになれるのかもしれない。
けれど、それを演じることと、それになることは別物だ。

「わからない人」相手であれば
これほど簡単に気持ち良くなれることはない。
だって、変態を演じるだけで手軽に
「個性的な人」という承認を得られるのだから。

しかし、これが「わかる人」相手ならどうだろう?
その浅はかさ、振る舞いと中身とのギャップを
見抜かれているのではないだろうか?
それを見抜いた相手は何を思っているのだろうか?

そう考えると、何だか怖いような
何だか小っ恥ずかしいような気がしてならない。
だから、そんな風に演じたいなんて思わない。

さらに言えば
そうした自称変態の言動には
どこか一生懸命さが垣間見える気がする。
それを演じているのだから当然のことだ。
ただ、その一生懸命さが垣間見えた瞬間
なんだか残念な気持ちになってしまう。

自称変態を冷ややかに見てしまう一番の原因は
そこにあるように思う。

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極端なことを言うなら
自分を含めた「ふつうの人」は
変態たちの言動を、ただ単に楽しんでいれば良いと思う。
それを真似ようとか、それに近づこうとか
全くもってムダなことだ。決してそれにはなれないのだから。
だから、傍観者としてそれを楽しんでいれば良い。

自分を始め、世の中のほとんどの人は「ふつうの人」だと思う。
他人と違う特別な何か、を持っているわけではないのだ。
しかしだからこそ「個性的な私」でありたいと必死になる。
そして、「個性的な私」になろうと必死になった結果
その一部人のたちが変態を演じるに至っているのだろう。
それはそれで人間の性として認めべきものなのかもしれない。

こう考えると
一生懸命、変態を演じる自称変態に対して
パチモノは引っ込んでろ、と切り捨てるのも何だか酷な気もする。

だから、自称変態に対しては
その言動がパチモノであることを心のどこかで感じつつ
あえてそれを楽しむこと、楽しんでいるように振る舞うことが
一番「平和的」な対応なのではないかと思う。
我ながら身も蓋もないなぁとは思うけれども
これ以上に「まとも」な対応を思いつかないから仕方ない。

他人の振る舞いについて、面と向かってあれこれ言う筋合いもないので
自称変態とはそんな感じで「平和的」に付き合っていければと思う。

自分自身については、「ふつうの人」であることを自覚した上で
あまり一生懸命ならず、傍観者として、のびのび生きていければと思う。

最後に、本物の変態とはこのような人のことをいうのだと思う。
女生徒を抱き「君しかいない」と曲を贈った教諭 懲戒処分に

「ふつうの人」にはこんなこと思いつきもしないでしょう。


学生がインタビューするとか、されるとか

「イケてる」学生をインタビューする人材紹介サイトがプチ炎上したらしい。
実はこれで2回目なんだけどね。
せっかくの機会なので、学生インタビューサイトについて思ったことを吐き出してみる。

※ちなみに、先の炎上したサイトは大人がビジネスとしてやっているもので
以下で触れる学生インタビューサイトは、学生が有志でやっているものを想定している

知ってる人は知ってるけど、学生インタビューサイトみたいなものは、昔からある。
中の人が引退して団体潰れて、また別のとこで似たような団体が生まれて活動を始める。
そんなことが繰り返されてる。その意味で、コンスタントに需要はあるものだとも言える。

そもそも学生インタビューサイトってこんなもんだろ(↓)て自分は思ってる。
以下ネガティブに聞こえるかもだから、繊細な人は読み飛ばして。

何か頑張りたいと思ってる、でも特別な技能はない学生が
自己実現のための手段としてインタビューしてて

色々頑張ってて、プチ有名人になりたい自意識強めな学生が
気持ち良くなるべくインタビューされてて

それなりに意識のある、ヒマを持て余した学生が
野次馬根性でそれを読んでる。

そんなイメージ。
でもそれで全然良いと思う。ちゃんと需要供給のバランスとれてるわけだし。
それに、「何か頑張りたい!」「人に認められたい」と思っちゃったり
野次馬根性で他人のことを色々覗いちゃったりすることは、人間誰しもありうると思う。
素直にそう思う。だからそれについて、これ以上ツッコんでも仕方ない。

捻くれた前置きが長くなったけど、以下本題。

自分の知り合いには
・これから沢山インタビューをするであろう学生
・これから沢山インタビューをされるであろう学生 がいる。

彼らに伝えたいことがある。
一昔前に、学生が学生をインタビューするブログが大炎上したことを思い出したりもしたから。
内容はアタリマエのことだし、余計なお節介なのだけれど
「書きたい」という衝動が抑えられなかったので、彼らに向けて勢い任せに書いた。

・これから沢山インタビューをするであろう貴方へ
自分自身やメディア(ブログ)が客観的にどう思われているか、たまに考えてみて。
もしかしたら大袈裟に心配し過ぎなのかもしれないけど
貴方自身やメディア(ブログ)のイメージが
インタビューされる人や団体のイメージを左右することも、なくはないと思う。

たまに、信頼出来る友だちに素直な意見をもらったりしてみるものいいかもしれない。
良くも悪くも、貴方の思っている以上に
自身のイメージがブログやツイッターで作られちゃうこともあるから。
自分自身も、インタビューされる人も、残念な思いをしないためにね。

・これから沢山インタビューをされるであろう貴方へ
メディアとかインタビュアーとかは、ちゃんと選んで。
そりゃ「インタビューさせて下さい!」なんてお願いされれば
きっとテンション上がっちゃうもんなんだろうけど、一旦落ち着いて。

そのメディア(ブログ)やインタビュアーのイメージとかで
無意味な飛び火くらったりすることもある。
何かの団体に所属してたり貴方自身がたくさんのものを背負ってたりすると
そっちに飛び火したりとか。善意でインタビュー受けたつもりなのに
自分自身や仲間のことを知りもしない外野からあーだこーだ言われるなんて馬鹿らしいじゃん?

知り合いのためとかこつけて、長々と文章書いた。
好き勝手書いて満足したから、おわり。

【おまけ】
冒頭に述べた某サイト、実は記念すべき第一回目の炎上を経験したのが自分だった。
わーい炎上!あかり炎上だーいすき!

当時は
「『半端ない行動力』てなんだwww」
「この目つきは犯罪者だろwww」といったお褒めのお言葉をたくさんいただいた。

また身内からは
「あんたインターネットに載ったらしいじゃない!」なんて評判になった。

こうして少しずつネタが増えていく。
だから今となっては良い思い出。


はじめに

たんぽぽ先生です。
ネット上ではこの名前を使いたいと思います。
今は学生です。
以下、このブログについて。

【なぜ書くか】

①ブログなんてクダラナイと主張したいから

世間でのブログの扱われ方に違和感を感じるときがある。あくまで勝手に感じてることだけど。
(詳しくは別途書く)

それについて色々文句つけたい。
けれどそのためには同じ土俵に立たなきゃなダメかなと思ってる。
「ブログ書いてない奴が、ブログについてあーだこーだ言うな!」とか言われないために。
好き勝手言いたい。だから書く。

「お前、文句垂れるなら自分もブログ書いてたから言えよ!」
「書いてるよー」

こんな風になるといいね。
でもある意味、これについてはこの時点でほぼ達成されたと言えるのかもしれない。

②いつか当時の自分を思い出してニヤニヤしたいから

先日、かつて自分が書いたmixi日記を読み返した。ヒマだったから。
「ぼくこんなに色々考えてます!」とか「ぼくこんな特別な活動してます!」とか
当時の自意識が暴走してるような内容で、なかなか気持ち悪い。
今なら糞味噌に叩いてるようなこと真顔で書いてたなんて、おもしろいね。

で、「その時どきの自分の言動は、後に振り返ったとき、なかなかのオカズになるんじゃないか」
と思った。自分で自分にツッコミを入れて勝手に楽しむのだ。

「何言ってんだ、ボンクラのくせ」
なんて思いながら、過去の自分を自分でぶっ叩いてニヤニヤする。

そんな日が来るのが楽しみ。
こっちが主たる目的になりそう。

③特にありません

【誰のために書くか】

自分のため。
ブログなんてオナニーだよね。
他人のためとか信じられないよ。

【何を書くか】

好きなこと。

【最後に】

言ってること、やってること、そのうち変わってるかもね。
それで良いと思う。生きてれば色々変わる。

「あのとき書いてたことと全然違うじゃねーか!」みたいな矛盾とか
それもおもしろいくて良いと思う。

その時どきの自意識を溜めといて、後に自分でネタにして楽しむためのものだから。